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秋葉原が変わっている!

昨夕は友人と会うために秋葉原に出かけた。

8月にはつくばエクスプレス(TX)が開業し、この24日からは日本最大級の家電ショップ「ヨドバシ AKIBA」がオープン。駅周辺はガラッと変わっている。

特に昭和通り口は一変。そこで待ち合わせたのだが、メンバーのひとりは迷ってしまった。
「昭和通り口って、”うらぶれた裏口”って感じだったけど、これじゃ、おもて口になっちゃったね」とその友人は言い訳していた。

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待ち合わせ時間まで15分ほどあったので、ヨドバシカメラを覗いてみた。
夕方の6時、店の中はすごい数の人だ。それに大変な騒音。
それぞれの売り場の売り子が脚立によじ登って拡声器でが鳴りたてる(これじゃ、昔のアメ横だ)。
質問してもまともな答えの返ってこない「新人店員」も多い。急遽かき集められた連中で売り場経験がまだ浅いのだろう。

最悪シーンは、「トイレは?」と聞いて「3階にあります」の答えが帰ってきたとき。
「最低でも3階までは店を見てください。トイレだけのお客はお断りします」、ということなのかなぁ。
ここで「丁度お時間」となった。

15分ではとてもとても見て回れない広さもありますが、それに加えて、あの混雑、騒音、トイレ問題・・・。疲れる店です。
皆さんも、AKIBAへのお出かけは体調万全、時間たっぷりのときにすることをお勧めします。

つくばの花屋さんで・・・(2)。

だけど、そんなデザイナーは、人間の世界にはいない。

多くの成功、失敗を繰り返した大自然の悠久の営み・・・。

花々はその疲れを癒してくれる天空からの贈り物。

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つくばの花屋さんで・・・(1)。

誰が、こんな見事な色、形、香りを設計したのだろう・・・。

もし、こんな美しいものをデザインできる人が世の中にたくさんいたら、どんなに和むことか・・・。

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三浦半島めぐり(3) 「ライフワーク」

観音崎自然博物館に寄った。Fさんはこの施設の支援者にもなっている。わずか5人という研究員で海に関連したものだけではなく山、川、森などさまざまなテーマに取り組み、成果を展示していた。観音崎だから海の魚だけかと思ったら大違い。自然の中では川、森、海が、山が深くかかわっているのである。

CIMG0607.jpg副館長の石鍋さんは淡水魚「ミヤコタナゴ」研究の第一人者。二枚貝の中に卵を産み付けるという変わった魚だ。里山や、田んぼの用水路など、貝が住むところにいる。ヤドカリとは異なり、タナゴはメスが二枚貝のわずかに開いた隙間から卵管を挿し入れ、オスがすぐさま射精して受精させ、貝の中で孵化させる。しばらく貝の中で育った稚魚はやがて貝から外に出て行くが、こんな「種の保存」の習性を持つ魚は珍しい。miyako.jpg
成魚で約3センチというかわいらしい魚だが、絶滅の怖れがある韓国からはタナゴの繁殖方法を勉強しに石鍋さんのところにやってくるという。
立派な体格で人なつっこい石鍋さんの話を聞いたり、生き方を見ていると、「ライフワーク」ということばが真実味を帯びてくる。巨大なエンターテインメント水族館には比べようのない小さな博物館だったが、ぜひ、子どもたちには見てもらいたいスポットだ。 (入館料 大人400円、小人200円。写真はミヤコタナゴ。観音崎自然博物館のホームページから)

三浦半島めぐり(2) 「海軍、軍港、料亭」

CIMG0614.jpg山と谷が入り組む谷戸(やと)の地形が多い三浦半島はトンネルの多さでも知られる。くぐるとその先にはこれまでとはガラッと変わった風景と入り江がある。谷戸の地形には良港が多く、横須賀が軍港として栄えたひとつの理由になっている。

東西冷戦時代には中が見えないように米軍、自衛隊の基地はベールで隠されていたが、緊張が解けた今では基地の対岸が公園になっていて、運よく入港さえしていれば誰でも巨大な戦艦や潜水艦を見ることができる。

CIMG0593.jpg日露戦争で世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を破った戦艦「三笠」が保存されていた。ちょうど戦勝100年記念行事が行われていたので入ってみると、艦内は思ったよりも広い。作戦室に入ると、いすやテーブルが当時のままおいてあり、交わされたであろう激論が聞こえてきそうだ。(写真は戦艦「三笠」)

JR横須賀駅は「階段のない駅」として知られるが、その理由は「バリアフリー」ではなく、当時、海軍士官が腰にぶら下げるサーベル(剣)が階段にぶつからないようにスロープにした、ということだった。このことに触れた資料は意外に少ない。

CIMG0595.jpg創業120年を迎えた老舗の料亭「小松」は「海軍料亭」の異名を持つ。真っ昼間、いきなり飛び込んで中を見せてもらったが、ご案内いただいたFさんがこの小松と親しくおつきあいしているから可能だったこと。ありがたい。
創業者の山本コマツは1849年(嘉永2年)生まれで浦賀の割烹で修行したあと、1885年(明治18年、38歳)、横須賀に自分の料亭を開いた。以来、海軍とのかかわり深く、多くの軍人の面倒も見て来た。日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)も間近にみ、ロシアのバルチック艦隊を破って世界を驚かせた東郷平八郎とも親しかった。(写真は料亭「小松」正面)

太平洋戦争が開戦(昭和16年)した翌年、山本コマツは次第に強まる経済統制と挨拶に来る将校の態度を見、さらには日清、日露の戦争時と比べて「こんどの戦争は勝てないよ」と予言したという。その翌年には、しばしば小松を訪れていた山本五十六大将が南方前線で米軍機に撃墜されて戦死、以降、戦況はいっきに悪くなっていく。コマツ大女将は予言を確かめることなく、昭和18年(1943年)他界した。享年96歳。

今年亡くなった次の大女将 山本直枝も95歳と長寿。小松で鍛えられたらどこの嫁に出しても恥ずかしくない、といわれるほど仲居に対するしつけは厳しかったという。いきなり飛び込んだ我々に対する従業員のさりげない気配りは、「さすが」とうならせるものだった。

両脇を幅1間の廊下に挟まれた100畳敷きの大広間から数多くの小部屋まで、今も現役で使われている。いろいろな種類の竹を腰板や鴨居、上がり框、床柱などに使った部屋は「竹の間」。それぞれににさまざまな細工が施され、それが部屋の名前になっている。山本五十六が愛用した「紅葉の間」(通称「長官部屋」)は掘りごたつに乗せたテーブルをはさんで座椅子が8席。時々の大将、長官が重要CIMG0597.jpg談合を終わると手の平を打って芸妓を招き入れていたのであろう。

大広間の宴のときは、1間廊下にずらり芸妓衆が並んだという。上官や部下と顔を合わせずに部屋に直行できる離れもある。毎晩、小松で展開されたであろう談合、宴の余韻が年季の入った建物のそこかしこに染み付いている。将校たちの高ぶった声まで聞こえてきそうだ。(写真は料亭「小松」の離れ座敷。背後のマンションさえなければ、ねぇ)
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