三味線、ウクレレ1か月。

2日(木)、津軽三味線レッスン4回目。だいぶ津軽三味線っぽくなってきた。ハワイアンと一緒で型がいくつかあるようだ。この型をしっかりと覚えると、あとはリズムとさわりの違いをどんどん覚えていけばいいのだという。
ところが、この型、なかなかのやっかい者。何度も何度も繰り返して指と体全体で覚えるしかない。ひとつのヤマというか壁というか、いよいよ挑戦し甲斐のあるところにさしかかってきた。
お師匠さんに「だめ、だめ」と言われながらも楽しいのは、新しいことを少しでも覚えていることを実感できるせいだろう。1年生の醍醐味だ。

4日(土)、ウクレレスクール3回目。知らないハワイアンの曲をメンバー全員でウクレレを弾きながら歌う。ハワイアン独特のハモリを入れながらで、とてもハーモニーがきれいだ。

ハワイアンの曲は、メロディがとても美しいものが多い。ゆったりとしたきれいな旋律をハワインアンリズムで奏で、みんなで歌っていると、何か気持ちが癒される。心拍数が高まらない気がするところから察するにハワイアンのリズムとメロディは何か体のリズムに近いものがあるのだろう。

音楽はホントにいい。これを職業にしたときはつらいこともあるのだろうけど、趣味で楽しむ範囲であれば、実に楽しい。ピアノやギターに触れる時間も増えている。当然、弾きながら歌も歌う。カラオケに久しく行っていないが、「弾き語り」もいいものだ。

三浦半島めぐり(最終回) 「幾条かの光が注ぐ相模湾」

湘南国際村は、平成6年5月にオープンした宿泊施設付きの研修施設「湘南国際村センター」を中核に各種公的機関、民間研修施設やサービス施設・居住施設などがある。また、村内で活動する様々な機関・団体による国際会議やセミナー、講演会などのソフト事業もおこなわれている。

眼下に相模湾が広がり、富士山や大島を一望する三浦半島中央部の丘陵地に位置し、国際的視野に立脚した「学術研究」「人材育成」「技術交流」「文化交流」という相互に関わりの深い4つの機能を集積した“21世紀の緑陰滞在型の国際交流拠点”、これがふれこみだ。

ところが、東京ディズニーランドの約4倍(188.3ha)という広大な敷地の開発は半分で止まっている。企業の研修施設の誘致を進めてきたが、バブル崩壊後の収益力悪化で研修施設建設にまで金を回せる企業は少なく、村内は空き地が目立つ。最近では1区画1000坪前後の土地を細かく分割して住宅地として切り売りするなど、少々つらそうだ。

img20050602.jpg高台にあり、遠くに相模湾に浮かぶ江ノ島が見える。天気がよければ、葛飾北斎の絵そのままの湾越えの富士山が見えるそうだが、雲が多く、切れ目から差し込む光が幾筋か湾に注いでいた。天からのスポットライトがあそこだけに・・・。

三浦半島駆け足の旅は終わった。歴史テーマだけではなく、新しいもの、恵まれた自然、人工の構築物・・・、盛りだくさんのものを見せてもらった。次の機会があれば、今度は「食べる」というテーマで訪ねても面白そうなところ、それが三浦半島だ。。

ご案内いただいたB装のF社長はもちろん、訪れた各施設の方々には大変お世話になりました。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

三浦半島めぐり(7) 「心安らぐ美術館」

現代美術家、若江漢字・はるこ夫妻が私財を投じて11年前に建設したのがカスヤの森現代美術館
クルマ1台がぎりぎり通れる住宅地の細い坂道の先の竹林にへばりつくようにして建っている。

CIMG0603.jpg環境問題への痛烈なメッセージで知られるヨゼフ・ヴォイスの作品のコレクションも多い。これは常設展でいつでも見られる。
企画展では「芸術家の妻たち展」をやっていた。芸術家の妻でありながら、自らも芸術家である女性5人の作品展。「『極道の妻』というのあったでしょ。あれを文字ったんですよ」と奥さんのはるこさん。 (写真の両端が若江ご夫妻)

敷地2000坪のほとんどが竹林。園内を散策すると、降り注ぐマイナスイオンに包まれ、実に気持ちがいい。住宅地の真ん中だが、この緑は貴重だ。

CIMG0598.jpg江戸時代から変わらないこの里山(カスヤの森)の保存を進めるため250体の羅漢を置き、「里山羅漢の会」として会員には気に入った羅漢1体を決めてもらって、個人の「心の記念碑」として森を見続けてもらう、という活動を行っている(入会金10万円、年会費2万円)。

心の親を得た羅漢には花が飾られていた。単なる「里山保存」活動ではなく、羅漢を通して自分を見つめ、そこから森の大切さを考えなおす。背の高い竹の足元に並ぶ羅漢の表情を見ていると、不思議と気が休まってきた。

奥さんお手製のかぼちゃの甘いプリンとコーヒーはホントにおいしかった。美術に森に羅漢、いただいたたくさんの「安らぎ」とあわせてご馳走さまでした。

三浦半島めぐり(6) 「日本のシリコンバレー」

東京湾を望む丘陵地に展開される横須賀リサーチパーク(YRP)は、日本のシリコンバレーとも言われる。YRPとは、横須賀 (Yokosuka) ・リサーチ (Research) ・パーク (Park) のそれぞれの頭文字を取ったもの。

電波情報通信技術に特化した研究開発拠点として公的な研究機関や国内外の民間研究機関が多数立地し、基礎から最先端にいたる幅広い分野の研究開発の活動を進めている。

つまり、工業団地ならぬ通信技術団地だ。夜間の定住人口は1200人だが、昼間は約1万人。そのほとんどすべてが研究者たちである。それこそ「石を投げたら博士にぶつかる」くらい優秀な人たちが世界中から集まっている。

CIMG0612.jpgゆったりしたスペースに雑木林や沼など自然をそのまま残した緑の多い環境・・・頭を使う仕事は東京のビルの中よりも、マイナスイオンに満ちたここのほうが確実に成果が出せそうだ。インド人と思しき研究者が沼のベンチで一休みしていた。

しかし、こんなことも。
電話業界で言うなら、このパークには当初NTTの研究施設が立っているだけだったが、NTTドコモがその後1期、2期、3期と立て続けにNTTの建物をしのぐ大きな研究施設を建設した。固定電話(親であるNTT)の衰退と携帯電話(子であるNTTドコモ)の隆盛・・・、最先端の日本のシリコンバレーにも「栄枯盛衰」見たり、である。

三浦半島めぐり(5) 「城ヶ島は晴れだった」

jyougasima-15-s.jpg200度ワイドの城ヶ島。
久しぶりにパノラマ水平線を見て地球が丸いことを実感した。これだけワイドだと、魚眼レンズでも使わない限り、カメラには収められない。


三浦半島南端の三崎港と有料道路で結ばれているのが城ヶ島。天気がよかったせいか、北原白秋が作詞した「城ヶ島の雨」の風情はついぞ見出せなかったが、この太平洋の広さは、当時とは多分変わっていないはず。白秋をしのぶ旅ではないので、ま、いっか。

城ヶ島の雨
作詞:北原 白秋  作曲:梁田 貞

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利久鼠の 雨がふる
 
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
 
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる
櫓は歌でやる
歌は船頭さんの 心意気
 
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

三浦半島めぐり(4) 「浦賀に黒船来航」

ペリーが4隻の黒船を率いて久里浜の浦賀に入港したのは、今から約150年前、1853年7月14日である。当時、ペリーはアメリカ合衆国東インド艦隊司令官の肩書きを持ち、アメリカ大統領の親書を携えて開港を迫った。
しかし、当時、将軍家慶は死の床にあり、幕府内部はてんやわんやの状態。とりあえず浦賀奉行・戸田伊豆守が合衆国大統領の手紙を受け取り、「検討させていただくのでひとますお引取りを・・・」。ペリーも「来春またくるぞ」と念押しして港を出たという。翌年、再来航したペリーとの間で日米和親条約が締結され、下田港(伊豆)と函館港が開港された。

交渉はすんなり進んだわけでもなかった。なかなか開港について幕府から色よい返事を得られなかったペリーは、大砲をぶっ放して脅したという。これは空砲だったが、浦賀水道は三浦半島と房総半島の間のごく狭い水路。音だけで幕府は腰が抜けてしまった。
サスケハナ号、ミッシシッピー号、帆船プリマス号、 サラトガ号の4隻からなる艦隊は乗組員2000人、砲門約200で構成されていたという。もくもくと煙を上げながら時々「ドーン」と空砲を撃つ黒船はさぞかし恐ろしくみえたことだろう。

peripark.jpgペリー公園(写真)の中央の記念碑は明治34年に建立されたもので、伊藤博文の筆で「北米合衆国水師提督伯理(ペリー)上陸記念碑」と刻まれている。公園内の記念館(無料)には当時の交渉記録などが残っている。

ところで、黒船とは室町時代末期から江戸時代末期にかけて、わが国を来訪した欧米諸国の 艦船のことを総称して言うそうだ。その船体が黒色に塗ってあったことに由来しているので、ペリーの艦船だけを指すのではない。鎖国時代の大型外国船だけでもペリー来航前にアメリカの商戦、オランダの軍艦、ペリーの前任の東インド艦隊司令官の軍艦などが来航している。

小学校で習った「黒船来航」だが、実際の上陸地に行ってみると、ペリーと戸田伊豆守の交渉シーンが少しぼけながらも目に浮かんでくるように感じた。歴史を追う旅の醍醐味のひとつである。

三浦半島めぐり(3) 「ライフワーク」

観音崎自然博物館に寄った。Fさんはこの施設の支援者にもなっている。わずか5人という研究員で海に関連したものだけではなく山、川、森などさまざまなテーマに取り組み、成果を展示していた。観音崎だから海の魚だけかと思ったら大違い。自然の中では川、森、海が、山が深くかかわっているのである。

CIMG0607.jpg副館長の石鍋さんは淡水魚「ミヤコタナゴ」研究の第一人者。二枚貝の中に卵を産み付けるという変わった魚だ。里山や、田んぼの用水路など、貝が住むところにいる。ヤドカリとは異なり、タナゴはメスが二枚貝のわずかに開いた隙間から卵管を挿し入れ、オスがすぐさま射精して受精させ、貝の中で孵化させる。しばらく貝の中で育った稚魚はやがて貝から外に出て行くが、こんな「種の保存」の習性を持つ魚は珍しい。miyako.jpg
成魚で約3センチというかわいらしい魚だが、絶滅の怖れがある韓国からはタナゴの繁殖方法を勉強しに石鍋さんのところにやってくるという。
立派な体格で人なつっこい石鍋さんの話を聞いたり、生き方を見ていると、「ライフワーク」ということばが真実味を帯びてくる。巨大なエンターテインメント水族館には比べようのない小さな博物館だったが、ぜひ、子どもたちには見てもらいたいスポットだ。 (入館料 大人400円、小人200円。写真はミヤコタナゴ。観音崎自然博物館のホームページから)

三浦半島めぐり(2) 「海軍、軍港、料亭」

CIMG0614.jpg山と谷が入り組む谷戸(やと)の地形が多い三浦半島はトンネルの多さでも知られる。くぐるとその先にはこれまでとはガラッと変わった風景と入り江がある。谷戸の地形には良港が多く、横須賀が軍港として栄えたひとつの理由になっている。

東西冷戦時代には中が見えないように米軍、自衛隊の基地はベールで隠されていたが、緊張が解けた今では基地の対岸が公園になっていて、運よく入港さえしていれば誰でも巨大な戦艦や潜水艦を見ることができる。

CIMG0593.jpg日露戦争で世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を破った戦艦「三笠」が保存されていた。ちょうど戦勝100年記念行事が行われていたので入ってみると、艦内は思ったよりも広い。作戦室に入ると、いすやテーブルが当時のままおいてあり、交わされたであろう激論が聞こえてきそうだ。(写真は戦艦「三笠」)

JR横須賀駅は「階段のない駅」として知られるが、その理由は「バリアフリー」ではなく、当時、海軍士官が腰にぶら下げるサーベル(剣)が階段にぶつからないようにスロープにした、ということだった。このことに触れた資料は意外に少ない。

CIMG0595.jpg創業120年を迎えた老舗の料亭「小松」は「海軍料亭」の異名を持つ。真っ昼間、いきなり飛び込んで中を見せてもらったが、ご案内いただいたFさんがこの小松と親しくおつきあいしているから可能だったこと。ありがたい。
創業者の山本コマツは1849年(嘉永2年)生まれで浦賀の割烹で修行したあと、1885年(明治18年、38歳)、横須賀に自分の料亭を開いた。以来、海軍とのかかわり深く、多くの軍人の面倒も見て来た。日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)も間近にみ、ロシアのバルチック艦隊を破って世界を驚かせた東郷平八郎とも親しかった。(写真は料亭「小松」正面)

太平洋戦争が開戦(昭和16年)した翌年、山本コマツは次第に強まる経済統制と挨拶に来る将校の態度を見、さらには日清、日露の戦争時と比べて「こんどの戦争は勝てないよ」と予言したという。その翌年には、しばしば小松を訪れていた山本五十六大将が南方前線で米軍機に撃墜されて戦死、以降、戦況はいっきに悪くなっていく。コマツ大女将は予言を確かめることなく、昭和18年(1943年)他界した。享年96歳。

今年亡くなった次の大女将 山本直枝も95歳と長寿。小松で鍛えられたらどこの嫁に出しても恥ずかしくない、といわれるほど仲居に対するしつけは厳しかったという。いきなり飛び込んだ我々に対する従業員のさりげない気配りは、「さすが」とうならせるものだった。

両脇を幅1間の廊下に挟まれた100畳敷きの大広間から数多くの小部屋まで、今も現役で使われている。いろいろな種類の竹を腰板や鴨居、上がり框、床柱などに使った部屋は「竹の間」。それぞれににさまざまな細工が施され、それが部屋の名前になっている。山本五十六が愛用した「紅葉の間」(通称「長官部屋」)は掘りごたつに乗せたテーブルをはさんで座椅子が8席。時々の大将、長官が重要CIMG0597.jpg談合を終わると手の平を打って芸妓を招き入れていたのであろう。

大広間の宴のときは、1間廊下にずらり芸妓衆が並んだという。上官や部下と顔を合わせずに部屋に直行できる離れもある。毎晩、小松で展開されたであろう談合、宴の余韻が年季の入った建物のそこかしこに染み付いている。将校たちの高ぶった声まで聞こえてきそうだ。(写真は料亭「小松」の離れ座敷。背後のマンションさえなければ、ねぇ)

三浦半島めぐり(1) 「ワールドクラスのオペラハウス」

29日の日曜日、三浦半島を駆け足でひとまわりしてきた。

会社時代、大変お世話になった横須賀の重要なお客様、B装 F社長さんがご案内してくださった。
Fさんは地域の振興にとても熱心な方で、さまざまな活動や施設の維持・発展に協賛したり、次の時代を担う少年・少女の育成に取り組んだり、これらに必要な人的ネットワークを海外にまで広げて構築したり、本業のかたわら、とにかく忙しい方である。今回回った先のほとんどはFさんが何らかの形でお手伝いやら支援・協賛やらをして関わっている。

京浜急行・横須賀中央駅を降りると、トランペットを口にしたジャズメンの金属製モニュメントが何体も迎えてくれる。ほっぺたとおまけに腹まで膨らませた表情がなんとも愛らしい。戦後ジャズの発祥の地は実は横須賀なのである。

94年(平成6年)、ジャズの殿堂だった米海軍下士官兵集会所(通称EMクラブ)の跡地が、よこすか芸術劇場に生まれ変わった。
中を案内してもらったが、日本最大級と言われるオペラハウス仕様の大ホールには、正直、度肝を抜かれた。外観はメタリック感を打ち出したモダンな仕上げだが、1820人収容の大ホールの内部は落ち着いたブラウン色調の中央のシートの周りを高さ4層の馬てい形の客席が囲む。4階建てのバルコニーにぐるりと囲まれた吹き抜けの中庭の趣だ。本舞台と同じ広さの舞台が左右にあり、コンピュータで幕の入れ替えをコントロールする。世界一流のオペラハウスに匹敵するホールだ。とにかくすごい!
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午後おこなわれる合唱と管楽器の組曲「横須賀」演奏会のリハーサルが行われていたが、音の響きもすばらしい。案内していただいた方によれば、ここで演奏する人は、例外なく「拍手のシャワーが上から降ってくる」と感じるそうだ。 (写真:舞台から客席を見る)

津軽三味線、ウクレレ、ギター、ピアノ・・・、何一つ客を呼べるほどの腕前は持ち合わせていないが、「お金を払ってでも」この舞台で「無観客試合」をしてみたぁ~い!

ブログ 1か月

ブログを始めて1か月になる。

組織人間のときは、自分の時間といっても、時間の大枠をコントロールしているのは会社であったり、同僚であったり、お客さんであったり、上司であったりで、自分は決められた予定に乗っかることが多かった。退職すると、今度は時間をすべて自分でコントロールしなければならない。組織人間がいきなりフリーの立場に立つときの一番の恐怖は、実は「時間の使い方を自分で決める」ということではないのか。「あんたの時間」なんて誰も関心ないし、ましてやコントロールなんぞしてくれないのだ。

ブログを始めたのは次の3つのねらいからだ。
①記録(日記)代わりにできそう。そのうち、「朝何を食べたっけ?」となるかもしれない。
②毎日の生活の中で何かを発見しようという気持ちを持ち続けるための仕掛けに。書くことは取材すること、取材は発見することだ。
③手や頭を使うのでおそらく「老化防止」にいいだろう。津軽三味線、ウクレレ、ピアノなどと同じ。
④友人、知人、親戚向けの「私は生きてますよ」というメッセージを送る消息情報誌 (就職情報誌ではない) として、など。

実際、1か月やってみて一番よかったのは、②意識して物事をいろいろな面から観察しようとするようになったことだ。散歩していても、花木や川などの自然の変化、買い物に行けば、店内の人の数や動き、商品の面白さ、イベントや旅に行けば目的地への行き帰りの道も興味津々となる。テレビを見ていればニュース番組から料理番組まで、「う~ん、これはいい」と思えることを探すようになった。

egonoki2.jpg夕食のときのカミさんのひとこと「あそこの高橋さんのところの玄関脇にある小さな花をつけた木、エゴの木というのだって。すごい名前だけど、どういう字なのか・・・見るととってもかわいい花だけど」。これだけ聞けば、翌日にはそのお宅の玄関に木を見に行く。確かにかわいらしいので、帰ってネットで調べてみると、「エゴノキ」という名前の木で5月から6月にかけて可憐な花をつける、ということがわかった。万事、こんな観察、取材の日々になりつつある。 (写真はエゴノキ)

④番目の「消息情報誌」の役目は十分果たしてくれている。ずいぶんと多くの人からメールやコメントが届くようになり、大いに勇気付けられている。
①記録になるかどうかは、今後の継続(意思)いかんにかかっている。③老化防止に役立っているかどうかも、もう少し時間をかけて確認しなければならないだろう。
 
「ブログ未経験の方は始めてみませんか」、これが1か月間の結論。なかなかのすぐれものだ、ブログは。
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